中森明菜の現在は、家族と音信不通で戸籍を外し20年以上も絶縁中である

中森明菜さんは家族と不仲に苦しんできました、深い溝ができてしまっているのかもしれないのですが現在も絶縁中であるとのことです。実の家族との不仲はつらいものであると思いますが、中森明菜さんがどのように家族と暮らしてきたのかということを見ていきたいと思います。

中森明菜は現在も家族と不仲で金銭のトラブルも、貧困から家族のために歌手を目指した過去

中森明菜さんのご実家は極貧でとてもではないは裕福な暮らしではありませんでした、子供時代は貧乏でありお金持ちになるにはどうしたらいいのかということを中森明菜さんは必死に考えていたということです。しかし貧乏な家庭ですが、家族との仲は良くそれは中森明菜さんにとっては救いでありました。

 

中森明菜 

1965年7月13日生まれ

東京都大田区出身

、6人兄弟の5番目で三女なんですね、男2人の女の子4人という大家族なんです。貧乏であったということで家族が大家族であったということも理由にあげられるにかもしれませんね。その後、東京の清瀬市に引っ越してそこで育ちます。中森明菜さんは、大家族で家が貧乏であったために幼い頃は、保母さんになりたかったそうなんですが、その夢を断念して、なんとかしてお金持ちになるために、お金を稼げる職業につこうと決意したということです。後に出版された、『中森明菜[心の履歴書]不器用だからいつもひとりぼっち』著書の中でこのことは語られることになります。

中森明菜さんの時代では実は6人兄弟というのはそこまで大人数ではなかったということなんですね。

ただそんなに収入の多くない家庭なのに6人兄弟というのは多かったのかもしれませんね。清瀬市に引っ越した原因も太田区では生活が苦しいということで東京の中でも少し田舎に引っ越したということなんです。本当は子ども好きであった中森明菜さんは、本当は保母さんになりたかったということです。

しかし、子ども時代に効率よくお金持ちになるには芸能人しかないということが頭の中にあったということです。タレント=お金持ちという図式は、小さな子供でもわかることだと思いますが、極貧から脱出できるのであれば、歌でもなんでも歌ってやろうという気概があったということです。貧乏から脱出するために歌手になることを志すというなんともハングリー精神にあふれた子供であったのでしょうね。

芸能人になることがどんなに難易度が高いことかということがわからなかったのかもしれませんが、その後に本当に歌手になるという目標を達成できるとは、信じられないサクセスストリーですね。

中森明菜さんは出版した著書で、六歳のころに、「自分が歌うことで、みんなが喜んでくれるのなら、私は何でもやろう」と記しています。相当な覚悟と本気度があったのでしょうね。芸能人になるためのオーディションの番組、スター誕生にでてなんと中森明菜さんは、11社から声を掛けられたといいます。ただタレントになりたいという思いだけでなく類まれな才能も持ち合わせていたということが証明されます。なんと歌手になるということは、中森明菜さん本人の夢ではないですが、母親の長年持っていた夢であったために、芸能人になった娘のことを母親は本当に喜んだそうです。

しかし、中森明菜さんは家族に対してあんまりいい感情を持ってはいなかったようです。

中森明菜さんは、愛情をあまり受けずに育ちましたからとおっしゃっている、だからそのぶんね、よく孤児院なんかで育ったコが、絶対自分は温かい家庭をつくるんだって言ったりするというようなコメントを残しているのですね。

このように中森さんは、人に嫌な思いや悲しい思いをさせたくないと思っているようですね。ただ、このような発言をする反面自分の感情のコントロールはできていないと自分でいっているのですが、きっと中森明菜さんもメンタル的に幼い頃の家庭環境を良く思っていなく病んでいるのではないかと思います。

親から愛情を受けなかったというのは本当かどうかはわかりませんが、実際はきっと両親はそんなことはなく愛情を与えていたのかもしれませんが、兄弟が多すぎたり、貧困の問題などがあって親子ですれ違いがあったのでしょう。メンタル疾患なんかの患者さんなんかに多いパターンなのかもしれません。

ただ、中森明菜さんのレコード大賞に駆け付けたりなんかしてくれたので、お母さんはきっと明菜さんに対しては愛情が深かったのであると思われます。

 

中森明菜さんが歌手を志したきっかけとも言える家族の存在であることにはかわりはないようですね。。中森明菜さんの、レコード大賞受賞に駆けつけた母の千恵子さんは、本当に自分のことのように喜んでいて本当に感動しましたね。

中森明菜さんの家族は、情報を週刊誌に売ったため、戸籍を抜いて絶縁状態に

1995年にお母さんの千恵子さんがお亡くなりになってからなんと家族とは絶縁状態であるとのことです。お母さんが亡くなる前に、中森明菜さんが中森の家族の籍から抜けてしまいたいといったということです。

この時父親は、そんなことは反対だと、猛反対したのだそうです、しかし、明菜さんは一方的に戸籍から抜けたということです。しかもそれは、明菜さん本人の口からでたのではなくなんと事務所の人間から聞いたということです。

中森明菜さんの実の父が82歳の時に涙ながらに告白したのだそうです。

戸籍を抜かれるということは相当なことがあったということになります。しかも中森明菜さんはそれを直接父親に話さずに、事務所からいうということは、顔もみたくないといわんばかりですね、父親は、籍を抜くことを猛反対したということですが、その相当な理由とは、お金に関する問題なんです。お金のことで問題があったということで中森明菜さんは籍を抜いたというのです。

 

んと中森明菜さんは、家族に自分のお金を勝手に使われてしまったというふうに勘違いしているのだそうです。明菜は、当時の事務所のスタッフから清瀬市の家族にいっぱいお金が行っていて、大変なんだよと言われたということです、なんともこれは事務所の人が誤解しているとはいえ、事務所の人はしっかりと本当のことを把握してもらいたいです、実際には、誤解であったということで、しかしこのことで中森明菜さんが家族とバラバラになるきっかけをつくってしまっているのであれば大問題ですね。

中森明菜さんの両親が経営していたスナックや中華料理店に、中森明菜さんの収入がいっていると誤解を受けたとお父さんの明男さんはおっしゃっています。

父親は必死に否定されていますけど、実際のところはどうなんでしょうね。

事務所の人から、中森明菜さんの実家にお金を取られて大変だと言われたという記事が報道されていることは確かなようですね。

中森明菜さんの家族としてはお金もらってはないということで中森明菜さんは事務所から家族の経営するお店のためにお金をとられていたという話を信じていたのです。

母親の死は1995年この時期からずっと20年以上も連絡が取れていないということです。金屏風事件と言われる近藤真彦マッチとの破局もあり、事務所独立騒動での裏切りなど人間関係のトラブルなんかもたくさんあった時期なので人間不信になっていたのかもしれません。

 

そんな人間不信の時に家族が自分の金を使いこんでというようなことを知っての精神的なショックとったら大きなものだったのでしょうね。

家族とはこの時から絶縁状態ということですので、この絶縁状態であるということも週刊誌なんかに報道されてしまいます。

悪いことには、悪いことが重なるとはこういうことで、絶縁状態と発言したのが家族であったので、余計に家族が自分のことをネタにして報道機関に中森明菜さんのことを売っていると勘違いされてしまったようです。もう何か悪いことが悪いことを呼んでなにがなんだかわからなくなってますね。まさに中森明菜さんにとっては厄が厄をよんでいる悪循環ですね。

実は、明菜の母親の葬儀以来、明菜と私たち家族は今日までずっと音信不通で、一度も会えていないんです」これは中森さんの身内であると自称する人間が週刊誌に行ってきた言葉です、ただこの言い方であるとまさに親族が週刊誌にゴシップを売ってきたと言っても過言ではないですね。

このリークは誰がやったとははっきりわかってないですけど、お金目当てであることは明白です。なんとも悲しい事実ですね。やはり家族との絶縁するほどの関係であったということは本当であったと言わざるをえませんね。お母さんの千恵子さんは、中森家の墓に入ってない、家族がいれなかったということは、お母さんと明菜さん以外は仲が悪かったのかもしれません。

墓にいれるかどうか決断したのは当然死んだ人にはできないので、その他の家族の人間がやったことですから、何が具体的にあったのかはわかりませんが、中森家の兄弟や家族間でトラブルがあったことは間違いないようですね。

中森明菜さんは、若くして芸能界入りして汚い大人の世界をみてきたことが人間不信になる原因をつくっているのかもしれません、だいの大人のお金もうけばかりを見てきてまた、その汚いお金儲けに利用されてきたので、家族にも不信感が波及していたのかもしれません。

芸能人の世界は、若くてピュアな中森明菜さんにはキツイ世界だったのでしょう。

中森明菜さんは、幼少期に貧乏から抜け出すために家族の為、芸能界を目指した

歌手になりたいとかアイドルになりとかいうのが一般的には、女の子の夢であり、それを叶えた明菜さんは、一般的には成功者のように思えます。しかし中森明菜さんが芸能界をめざしたのは、貧乏に苦しんでいる家族を救うためであったということです、子供のころから家族思いのいい娘であったということです。今の日本では考えられないようなハングリー精神ももっていたということですね。

1981年のスター誕生に出ることによって、当時16歳の中森明菜さんが世にでることになるのです。

当時の日本テレビ系のスター誕生はたいへんな人気番組で子のオーディションに合格することが芸能界への一つの入り口でした、後のアサヤンのようなスター発掘番組だったのでしょう。

なんとスター誕生に、中森明菜さんは中学校の頃から応募しており、1978年のころから応募していたということです。8000人以上の応募者の中から書類選考なんかを通過したのはたったの10人でその中に明菜さんは入っていたということですから、当然、結構な逸材であったということです。予選では、5秒程度しか歌唱させてもらえないため厳しいのですが、そんな厳しい中でも中森明菜さんはかちあがり優勝までしたのでみなさんもご存じのとおり歌唱の実力は当時からすばらしいものであったということです。

 

スター誕生は、当時の人は皆が知る沢山のスターが出た超有名番組です。当時、夢みてハガキを送る人は沢山いました。タレントになる一番分かりやすい道だったかもしれません。萩本欽一さんや、タモリさんや西川きよし、横山やすしなど歴代の錚々たる司会者が務めていました。

また輩出した芸能人も、小泉今日子や、柏原芳恵、石野真子などなかなかビックですね。

家族との絶縁していたということですが、唯一の仲の良いお母さんは、中森明菜さんのスター誕生の成功をとても喜んだということです。13歳の頃から中森明菜さんはスター誕生を目標にして母親の夢であったアイドル歌手への道をすすんでいこうとしたそうです、それをみていたお母さんの千恵子さんは、当然のようにエールを送っていたということです。

お母さんの夢を引き継ぐ形で、中森明菜さんは、そのの夢を叶えるというまるでドラマのような展開ですね、お母さんの夢を引き継ぎ、そしてバトンは渡されたといった感じでしょうね。

中森明菜さんは、スター誕生に挑戦して3回目でやっと予選を突破して、1981年8月2日にスター誕生に出演をするのです。山口百恵の歌である夢先案内人で番組最高点である392点(500点満点)でトップで優勝しました。そして異例の11社からのオファーで芸能界いりして、1982年に新人としてデビューします。皆さんご存じのスローモーションで中森明菜はデビューするのです。

しかし精神的にもピュアで年齢も若かった中森明菜さんは、芸能界の厳しい生活や大人の世界に翻弄され精神的に疲れ切ってしまい、精神的にも病んでしまうのですね、一見大成功を収めたようにみえますが、本当に中森明菜さん本人にとっては幸福であったかというと、不幸のはじまりだったのではないかと思われますね。人間いったい何がよくてなにが悪いかなんて後になってみないとわからないですね。

 

そして、成功に満ちた芸能生活が始まっていくのかと思いきやマッチ近藤真彦さんとの別れや家族との断絶など残酷な末路が用意されていたということになってしまいます。

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